所在地:岐阜県大野郡白川村平瀬
交通:長良川鉄道 北濃駅より約43km
本データは一般社団法人 電力土木技術協会様の許可を頂いて水力発電所データベースより転載しております。(一部は現地案内板、銘板及び事業者様パンフレット等の資料より)
現地紀功碑より
(異体字や略字等、一部の文字は置き換えてあります。また、改行はそのままです。)
闡幽濟功 平瀬發電所紀功碑 輓近水力電氣事業ノ興隆スルヤ燻R深峡發電所ノ設アラサルハ無 シ其全國ニ冠シテ形勢ヲ占ルモノ信越濃飛ノ峡谷ヲ以テ其稱首ト 為ス御嶽乘鞍岳ノ連峯白山大日嶽一帯ノ山彙峻嶺ヲナス所四時雪 ヲ戴キ流レテ壑ヲ為シ懸テ瀧ヲ為シ奔テ湍ヲ為シ湛テ譚ヲ為スモ ノ我ガ飛彈大白川流域ノ如キ亦其顯著ナルモノナリ大白川ハ源ヲ 白山ヨリ發シテ庄川ノ上流ヲ為ス明治三十九年ノ交此ニ着眼シテ 發電計畫ヲ立テタル人アリシカ實現スルニ至ラス尋テ大白川電力 會社ノ名ヲ以テ企圖セラル後濃飛電氣株式會社之ヲ繼受シテ始メ テ開發ノ功ヲ立ツ大正十三年七月社長兼松煕氏工學士伊川重良氏 ヲ伴ヒテ躬ヲ實地ヲ蹈査シ其有利ナルヲ認メ之ヲ福澤桃介氏ニ詢 ル福澤氏ハ夙ニ國内富源ノ開發ヲ任トシ本邦電氣産業ニ貢獻多キ 所ノ人ナリ大白川開發ノ計ヲ聞テ亦親シク其地ヲ訪ヒ其功ノ成ル 大ナルヲ慫慂ス兼松氏是ニ於テ意ヲ決シ萬難ヲ排シテ役ヲ董シ這 ノ行路至難交通不便所謂武陵桃源ノ境ヲ拓キ道ヲ修メ棧ヲ架シ十 四年四月水路ヲ開キ十五年十月其功ヲ竣ヘ甫メテ送電ヲ創ムルニ 至リ當初豫定ノ期間ヨリ速ニ且豫算工費以内ニ於テ最不便ノ地ニ 於テ最苦難ノ工事ヲ竣成シタル功ハ技術監督杉山榮土木主任伊川 重良兩氏及ヒ關係各首脳者ノ努力ト謂フ可シ其使用水量二百五十 個落水差六百六十四尺水路亘長二千二十一間鐵管延長一千四百六 十四尺發電力一萬一千零五十六基送電線延長二十四哩輸送材料二 百二十六萬貫ニシテ之ヲ馬車四萬八千臺ニ駄シ就役人夫十七萬四 千人而シテ所要工費総額實ニ三百六拾萬圓ト註セラレタリ盖シ庄 川上下流域ニ於テ經畫セラルアル所ノ水電事業ノ完成スル曉ハ電 力總出費實ニ二十萬基ト稱セラル而シテ平瀬發電所ハ實ニ之カ魁 ヲ為スモノナリ抑モ平瀬ノ地タル近ク白山餘脈ノ分水嶺ヲナセル 蛭野高原ヲ擁シ其溪谷ノ北ニ流ルモノハ庄川ト為リテ日本海ニ注 キ南ニ下ルモノハ長良川ト為リテ太平洋ニ入ル峡谷ノ幽深ニシテ 岩樹皆苔ヲ封シ千古斧斤ヲ容レサル所ノ森林ニ饒ム大白川ヲ遡レ ハ白水ノ瀧アリ真下三百六十尺幅四十二尺天半ニ大銀簾ヲ掲ケ峡 蹙リ碧摩シテ梯洞飛舞ノ趣アリ之ヲ日光華嚴瀑ニ比シテ更ニ雄麗 ノ觀ヲ標ス更ニ進メハ白湯温泉幽澗ヨリ湧沸シテ澡浴スヘク而シ テ三方崩山日照岳御前山等在在峻立シテ餘脈ノ峡關ヲ成ス所所謂 大白川大家族ノ屋宇ヲ見ル可シ大家族ノ制ハ今半廢シテ復タ舊型 ヲ存セスト雖モ猶以テ中世ノ遺俗ヲ徴スヘク其僻偏ノ故ヲ以テ前 代ノ餘影ヲ留メタルハ珍重スヘシ但其地岐阜市ヲ距ル凡三十里長 良川ニ浴フテ遡リ九曲ノ棧道ヲ環折シテ漸ク達スヘク北方ヨリス レハ越前福井越中煢ェニ通スル二條ノ路アルモ共ニ行程二十五里 ヲ算シ而モ峻嶺險谷其間ニ屏列シテ山峭溪奔ノ奇勝ヲ極メ百卉異 草美禽ノ啼クモノト相映シテ棧雲峡嵐ノ大晝圖ヲ展ス唯其地僻遠 ニ偏シテ交通ノ便少ナカリシ故世ニ出ル所晩カリシナリ况ヤ沿道 ニハ戰國期ヲ回顧スヘキ古城址點點溪間ニ低迷シ中野ニハ王孫ノ 陵墓アリ陵下ニ照蓮寺アリテ尋訪スヘキ史蹟ニ乏シカラス凡ソ其 勝概斯ノ如ク而シテ久シク著聞セス予酷タ之ヲ憾ム大白川平瀬發 電所ノ竣功ニ因テ始メテ世ニ顕レ山靈含笑知己ヲ得タルヲ歡ヒ夫 ノ國益ヲ開キ産業ニ資スル所ノ事功ト英斷之ヲ開發シテ沿流起業 ノ先驅ヲ為シタル兼松氏ノ志行ト合セテ之ヲ千古ニ垂ル可シ其碑 ニ勒シ來者ニ●ルモノ以アル哉 昭和三年六月 名古屋 武市雄圖撰 大島徳太郎書
補足:●は言念
(現代文に書き直してみました。一部変ですが御容赦を。添削大歓迎です)
闡幽済功(深い山や谷を開発して経済に貢献する)
平瀬発電所紀功碑
近年、水力電気事業を栄えさせる為には高山深峡に発電所を設けることが必須である。
全国の水力電気事業に於いて形勢を占めるには信越濃飛の峡谷を開発することが真っ先に挙げられる。
御嶽、乗鞍岳の連峰、白山大日嶽一帯の山群が険しい峰をなす所は、四季雪を戴き、その流れは谷となり、流れ落ちて瀧となり、奔て(走って)早瀬となり、湛えて湖となる。
我々が開発している飛騨の大白川流域もまた、その顕著なる場所である。
大白川は源を白山より発して庄川の上流に存在している。
明治39(1906)年の変わり目、ここに着眼して発電計画を立てる人がいたが実現するに至らなかった。
その後をたどって大白川電力会社により計画された後、濃飛電気株式会社にこれを継受して始めて開発の成功に至る。
大正13(1924)年7月、社長の兼松煕(かねまつ ひろし)氏、工学士の伊川重良(いかわ しげよし)氏と一緒に
現地へと実際に赴き歩いて調査し、この場所が発電に適している事を確認し、これを福澤桃介(ふくざわ ももすけ)氏に相談する。
福澤氏は以前から国内の水力発電資源の開発を仕事としており、我が国の電気産業に数多く貢献している人であり、
大白川開発の計画を聞いて自ら当地を訪ね、成功する可能性は大きいので計画を実施するように勧めた。
兼松氏はこれにより意を決し数々の苦難を排して工事を監督し、這わないと進めない程に道は整備されておらず交通が不便であった、いわゆる武陵桃源(俗世間からかけ離れた別天地)との境を拓き、
道を造り橋を架け、大正14(1925)年4月水路を開き、大正15(1926)年10月に竣功し、送電を開始するに至った。
当初予定の期間より速やかに、且つ、予算を工費以内に抑え、最も不便な地に於て最も苦難であった工事を成し遂げた功績は、
まさに技術監督の杉山榮(すぎやま さかえ)、土木主任の伊川重良(いかわ しげよし)両氏及び関係各首脳者の努力である。
本発電所の使用流量250個[6.957立方メートル毎秒]、落差664尺[201.21m]、水路亘長2021間[3674.54m]、
鉄管延長1464尺[443.64m]、発電出力11056kW、送電線延長24マイル[38.62km]、
輸送材料226万貫[8475トン]となりこれを馬車48000台で荷役し、述べ作業人員174000人、
そして所要工費の総額は実に360万円[現在の価格で約21億円(日銀企業物価戦前基準指数2014年/1925年にて換算、端数切り上げ)]となった。
庄川流域で計画されているであろう水力発電事業が完成した暁には総発電出力は実に20万kWになるともいわれているが、その中で平瀬発電所はまさにこの先駆けである。
そもそも発電所を設けた平瀬の地とは、近くに白山の余脈[山々を連ねていない尾根]であり分水嶺を為しているひるがの高原を擁しており、
その渓谷を北へ向かう流れは庄川と為って日本海に注ぎ、南に下る流れは長良川と為って太平洋に入る。
峡谷は非常に深く岩や樹は皆苔蒸しており、永い間伐採されずにいる森林が溢れる大白川を遡れば白水の瀧が在る。
落差360尺[109.09m]、幅42尺[12.727m]、空の半分を水飛沫の銀暖簾(のれん)が占め、峡は狭まり削られた部分には水が碧く溜まっている様子は
空を漂うように洞が連なっている趣が有り、これを日光華厳の滝と比べても更に雄大で美しい眺めであると記す。
更に進めば深い底より熱く湧き出す白湯温泉が在り入浴できる。そして三方崩山、日照岳、御前山などが至る所に聳え立って余脈[山々を連ねていない尾根]が遮る様に
狭くなっている様子は、俗に言う大白川大家族の家屋[白川郷、五箇山など当地域に存在する大家族制時代の合掌造りの家屋]を見るようである。
現在、大家族制は半ば廃れており、当時のままの制度は存在しないとはいうものの、やはり中世の遺された世俗を表に呼び出すことが必要であり、
都市から離れた田舎であることにより昔の名残を留めている事は珍しいものとして大切にするべきである。
ひたすら、その場所(大白川)は岐阜市からその距離およそ30里[118km]、長良川に沿って遡り曲がりくねった棧道[崖沿いに張り出した道]を回り込んでようやく到達する。
北方から訪ねるとすれば越前福井、越中高岡に通ずるいくつかの道が在るが、共に行程25里[98km]を数え、しかも高くて険しい峰、険しい谷が連なっており、
切り立った山、勢いよく流れる渓流の珍しい眺めは極めて素晴らしく、多くの様々な草々が生え、美しい鳥が啼いている様と相まって
棧雲峡嵐の大書図[桟雲峡雨をもじって更に雄大な様子を壮大な画に例えたと思われる]が拡がっている。
その地は不便で遠い場所に在り交通手段が少ない為、世間に知られる事が遅かった。
(世間に知られることが遅かったので)言うまでもなく沿道には戦国期を想い起こさせる古城址が点々と渓谷の下の方に存在し、
中野[現在の岐阜県高山市荘川町中野]には王孫[後鳥羽上皇の子孫とも言われている嘉念坊、照蓮寺を建立]の陵墓があり
陵墓の下には照蓮寺が在り、ぜひとも訪れるべき史蹟が多い。
だいたい、優れた景色はこの様に永い間久しく世間に知られない事が以前から大変に酷くこれを不満に思う。
大白川平瀬発電所の竣功により始めて(大白川の地が)世間に知られた事を山々の神々は微笑み、親友を得たかのように歓んだ(であろう)。
人々の国益を開き産業に資する所の事功と英断、これ(平瀬発電所)を開発して沿流起業[庄川水系に於ける水力発電開発]の
先駆を為し遂げた兼松氏の志や行動と合せてこれを永久に伝えようと、この紀功碑に刻み込んで来訪する者に忠告するものである。
昭和3(1928)年6月 名古屋 武市雄圖撰 大島徳太郎書
(2016-07-19画像追加、2015-07撮影)
紀功碑です。
背面には特に碑文は在りませんでした、また、紀功碑の向こうには電源神社も祀られています。
厳しい冬季気象条件の地に於いて風雪に因る一部風化が見られつつも、関西電力様にて保守されており、きちんと読むことが出来ます。
こういった碑がきちんと残されているのは素晴らしいですし、保守を行い見学出来る様にして頂いている関西電力様には頭が下がる思いです。
(2016-07-19画像追加、2015-07撮影)
紀功碑碑文です(全体画像から切り抜きしたので画質は悪いです)
題字の「闡幽済功」ですが、その左に書かれている字が略字で見当たりませんでした。
恐らく「桃介顕」で桃介(福澤桃介氏)が顕す(表す)という文字及び意味と思われます。
(2016-07-19画像追加、2015-07撮影、敬称略)
大白川電力株式會社
取締役社長 兼松煕
取締役 伊藤傳七
取締役 野呂静
取締役 大塚榮吉
取締役 杉山榮
取締役 齋藤直武
監査役 安東敏之
監査役 小山禎三
監査役 箕浦宗吉
相談役 福澤桃介
紀功碑左下には大白川電力の役員名が記されています。
(2006-05撮影)
発電所と周辺の様子
桜が植わっておりなかなかいい感じです。
(2016-07-19画像追加、2015-07撮影)
放水庭部分です。
水の透明度が物凄いです。
(2006-05撮影)
発電所と放水路
左の余水用の管路と右の水圧鉄管の間には、運開当時の水圧管路の支持跡らしきものがあります。
(2016-07-19画像追加、2015-07撮影)
夏の発電所と放水路です。
(2006-05撮影)
放水路
上の画像の国道156号線を渡った反対側です。
白いコンクリート部分は白川村小水力発電所の導水路で終端(画像中央奥)に発電所が在り、その先が庄川です。
(2010-11-22画像追加、2010-06撮影)
大白川に在る取水堰です。
下流のブロックがかなり削れています。
(2010-11-22画像追加、2010-06撮影)
取水堰のすぐ近くに沈砂池が在ります。
(2010-11-22画像追加、2010-06撮影)
発電に必要な水は画像右手に写っているスクリーンを通り発電所へ、溢流堤から溢れた水は集められて取水堰の少し下流にて大白川へ戻されます。
(2010-11-22画像追加、2010-06撮影)
大白川への余水吐