所在地:岐阜県恵那市飯地町
交通:JR中央本線 武並駅より約12km
取水先の笠置ダムには日本で初めて塵芥流下用としてセクターゲートが設けられました。
(セクターゲートについてはフォトギャラリー内の画像説明もご覧ください)
また、昭和十年六月に公布された河川高堰堤規則が初めて適用されました。
本データは一般社団法人 電力土木技術協会様の許可を頂いて水力発電所データベースより転載しております。(一部は現地案内板、銘板及び事業者様パンフレット等の資料より)
本データは一般財団法人 日本ダム協会様の許可を頂いてダム便覧より転載しております。
現地紀功碑より
(※部分は判読不能、一部の文字は置き換えてあります。また、改行はそのままです。)
笠置發電所紀功碑 電力ハ萬工ノ鴻礎百業ノ要基タリ而シテ國運ノ進展國力ノ伸長皆 倶ニ其ノ絶大ノ寄與ニ頼ル就中水力發電ハ特ニ悠久無盡ノ天然資 源ヲ利スル者ニシテ一貫セル統制ノ下ニ※ガ開發ニ努メ動力ノ供 給豊富便易ナルヲ致ス此ノ如キハ真ニ國家永遠ノ理想ニシテ又百 年ノ大計ト謂フベシ我ガ社ノ木曽川開發ニ當ルヤ此ノ一大理想ノ 實現ヲ圖リ一川一社主義ヲ標榜※テ先ニ第一期工事ノ完成ヲ見今 又茲ニ第二期工事ノ先驅タル笠置發電所ノ竣功ヲ見ルニ至レリ笠 置發電所ハ木曽ノ清川笠置山南麓ヲ西スル所岐阜縣加茂郡飯地村 ト同縣土岐郡大湫村トノ間ヲ劃シ本流ヲ横断シテ築造セル一大堰 堤ニ據ルモノニシテ此ノ堰堤ハ焜T三十九米一長サ百五十四米九 敷幅三十五米九其ノ體積實ニ十萬八千六百立法米能ク一千百八十 萬立方米ノ水ヲ湛フ本所右岸ノ取水口ト堰堤トノ間ニハ水位ノ變 化ニ應ジテ圓滑ニ塵芥ヲ流下セシメンガ為メ本邦最初ノ試工トシ テ「セクターゲート」ヲ設備セリ取水口ヨリハ内径四米八ノ水壓鐵管 三條ニ依リ使用水量毎秒百六十五立方米八有効落差二十九米五ヲ 得一萬四千九百「キロワット」ノ水車三臺一萬五千「キロヴォルトアン ペア」ノ發電機三臺ヲ以テ四萬五百「キロワット」ノ電力ヲ發生セシム 鐵管及ビ水車共其ノ形體ノ大ナル事時ニ於テ正ニ本邦第一ヲ推サ ル本工事要スル所ノ總費一千三萬圓使用「セメント」八十七萬三千袋 鐵材三千瓲夫ヲ役スル一百十四萬五千人ニ及ビ其ノ間一千三百餘 人ノ負傷者ト十九人ノ犠牲者トヲ出シタルハ寔ニ痛恨ノ極ニシテ 無限ノ切哀ニ堪ヘザルナリ抑々本計画ハ大正三年出願ノ當初ニ際 シテハ僅々一萬「キロワット」程度ノ水路式ヲ採リシモ電力ノ需要激 増ノ情勢ト堰堤技術ノ進歩トニ鑑ミ之ヲ堰堤式ニ變更セルモノニ シテ大正末期第一期工事ニ續キテ用地買収ノ一方木曽川沿岸十數 ヶ所ヲ試掘シ苦慮慘憺遂ニ上流長島町久須見地内ニ豊贍稀有ノ優 秀ナル混凝土用砂礫層ヲ發見シ益々鋭意シテ着々準備ノ工作ヲ進 メシガ偶々産業界深甚ノ不況ニ遭ヒテ一時延期ノ止ムナキニ至レ リ然リト雖モ其ノ後経濟界好轉スルアリテ昭和九年七月建設用假 設備工事ニ着手スルニ及ビ乃チ中央線大井驛ニ専用「ホーム」ヲ設ケ 「セメント」及ビ砂索道ヲ架シ又堰堤附近ハ両岸迫逼ノ隘地ナルヲ以 テ上流五粁ノ地河合ニ建設事務所及ビ材料置場ヲ置キ同處ヨリ標 準軌道ヲ布キテ現場ニ達セシメタリ斯クテ同年十一月工事實施認 可ヲ得ルヤ直ニ混合工場六瓲八瓲「ケーブルクレーン」等ヲ設備スル ト共ニ愈々本格的ノ工事ニ入レリ而カモ堰堤ノ如キハ昭和十年六 月河川煢£迢K則ノ公布セラルルアリテ之ガ最初ノ適用ヲ受ケ基 礎岩盤ノ検査ヲ受クル事十有七回工事ハ這般至厳ナル監督ノ下ニ 進捗セシガ此ノ間洪水ノ災害ヲ被ル事十有餘度時ニ渇水期ノ出水 ニ遭ヒ時ニ記録的ノ大洪水ニ惱ミ或ハ堰堤假締切ヲ決壊セラレ成 ハ放水路締切ヲ潰破セラルル等殆ンド致命的打撃ヲ受クル事一再 ニ止ラザリシモ社長初メ幹部ノ熱心ナル督励ト従業員一同並ニ請 負人ノ献身的盡痒トニヨリ善ク此ノ大自然ノ猛威ヲ克服シテ着工 ヨリ竣功ニ至ル迄真ニ晝夜無行ノ一路ヲ履ンデ其ノ達成ニ邁進シ 比較的低廡ナル工費ヲ以テシテシカモ豫定ノ期限ヲ短縮シ昭和十 一年十一月中旬發電ヲ開始シココニ延長九粁餘ニ及ブ溪谷ヲ化シ テ瀲艶タル大胡トナシ遠クハ恵那笠置ノ峯巒近クハ兩岸ノ風物之 ニ影ヲ涵シテ四時絶佳ノ光景ヲ添フルニ至ル工成リテ半歳時恰モ 支那事變ノ勃發ニ會シ我ガ國諸種工業一大躍進ノ秋ニ際セリ本工 事ノ竣成ガ此ノ未曽有ノ時運ニ貢献スル事盖シ測ルベカラザルモ ノアルヲ信ズ斯業ノ隆盛天地ト共ニ悠久窮リナカルベシ乃チ碑ヲ 建テ梗概ヲ勒シ以テ後昆ニ賂スト云爾 笠置發電所建設所長 川榮次郎撰 移山佐分清之書
(現代文に書き直してみました。一部変ですが御容赦を。添削大歓迎です)
笠置発電所紀功碑
電力はあらゆる工業の基礎、多くの産業の基礎であり、それに加えて
国の勢いを伸ばし国の力を発展させるのを揃えるのに非常に役立つ。
その中でも水力発電は特に永遠無尽蔵の天然資源を利用する物であり、
一貫して国が統制している下でこれらの開発を行い、
動力(電力)を豊富に供給し易い事は真に国にとって理想的であり百年の大計とも言ってよい。
我が社(大同電力)が木曽川の開発をするに当たり、この一大理想の実現を図り
一川一社主義を標榜して先に第一期工事(大井発電所及びダム)の完成を見た。
今、又ここに第二期工事の先駆である笠置発電所の竣功を見るに至り、
笠置発電所は木曽川が笠置山南麓を西に流れている場所、
岐阜県加茂郡飯地村と同県土岐郡大湫村との間に計画され、本流を横断して築造せる一大堰堤である。
此の堰堤は烽ウ39.1m、長さ154.9m、敷幅35.9m、
その体積は実に108600立方メートル、11800000立方メートルもの水を湛える。
本ダム右岸の取水口と堰堤との間には水位の変化に応じて円滑に塵芥を流下させる為
我が国最初の試験設置としてセクターゲートを設置した。
取水口からは内径4.8mの水圧鉄管3条にて使用水量毎秒165.8立方メートル
有効落差29.5mを得て14900kWの水車3台、
15000kVAの発電機3台を用いて40500kWの電力を発生させる。
鉄管及び水車共にその形態の大きさに於いては正に我が国第一であろう。
本工事に要する総費用は1003万円を使用、セメント873000袋、
鉄材3000トン、作業員(延べ人数)1145000人に及び、
その間1300人を超える負傷者と19人の犠牲者とを出した事は
本当に痛恨の極みであり尽きる事のない悲しみに堪えられないものである。
そもそも本計画は当初、大正三年に出願した際には僅か10000kW程度の
水路式を採っていたが電力の需要が激増している情勢と
ダム技術の進歩とを鑑みてこれをダム式に変更した。
大正末期の第一期工事に続き、用地買収の一方で木曽川沿岸十数ヶ所を試掘し
散々苦労して遂に上流の長島町久須見地内に珍しく豊富なコンクリート向けの
砂礫層を発見し、益々鋭意で着々準備の工作を進めていたが
たまたま産業界が大変な不況に遭って一時延期をせざるを得なくなったが、
しかし、その後経済界が好転したため昭和九年七月建設用の仮設備工事に着手する事が出来た。
中央線大井駅に専用ホームを設け、セメント及び砂索道を架設した。
ダム付近は両岸が迫りくる狭い場所のため上流5kmの地、
河合に建設事務所及び材料置場を置き、同所より標準軌道を現場まで布設した。
このようにして同年十一月工事実施認可を得ると直に
混合工場に6トン、8トンのケーブルクレーン等を設備すると共にいよいよ本格的な工事に入った。
さらにダムについては昭和十年六月に河川高堰堤規則が公布されたが、
このダムが最初の適用を受け、基礎岩盤の検査を受ける事17回にも及んだ。
工事はこれら厳しい監督の下に進められたが、この間、洪水の災害を被る事10回以上、
渇水期ですら出水に遭い、時には記録的な大洪水に悩まされ、ダム仮締切を決壊させられ
放水路締切を突破され、殆ど致命的な打撃を受ける事も一度や二度では無かったが、
社長初め幹部が熱心に監督し励まし、従業員一同並びに請負人が献身的に尽くした事により
この大自然の猛威を十分に克服して着工より竣功に至る迄、
真に昼夜無く一心不乱に工事の完成に邁進し、比較的予算が少ない中にあっても、
予定の期限を短縮し、昭和十一年十一月中旬発電を開始し、
ここに延長9キロ余りに及ぶ溪谷を変化させて水が満ち溢れる湖となった。
遠くには恵那笠置の峰々、近くには両岸の風物が影を写して四季素晴らしい景色を添えるものである。
工事を開始して半年後の秋、折しも支那事変が勃発、我が国の諸工業が軍需により躍進したが、
本工事の完成がこの未曽有の時運に貢献する事は間違いないであろうと信じている。
水力発電業の隆盛は天地と同様に悠久であり極まる事が無い。
そこで碑を建て概要を書き刻み、これを以てまさしく後の世に贈るものである。
笠置発電所建設所長
川榮次郎撰 移山佐分清之書
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影)
紀功碑正面です。
画像左奥には慰霊碑が在ります。
題字は「天譲無窮」稲江題となっています。
稲江というのは増田次郎氏の雅号で、出身地の駿河国志太郡稲川村から採られたと思われます。
本文最後の「碑ヲ建テ梗概ヲ勒シ以テ後昆ニ賂スト云爾」、水力発電を業としている者ではありませんが、
水力発電に興味を抱く者として後世の者が有難く参考にさせて頂きました。
貴重な時代の碑(いしぶみ)、末永く残されることを願って止みません。
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影、敬称略)
取締役社長 増田次郎
常務取締役 藤波牧
常務取締役 永松利熊
取締役 工務部長 有村慎之助
建設所長 石川 榮次郎
建設次長 電氣係主任 熏繩三郎
土木係主任 煬K鋼一郎
工務係主任 近藤政則
土木工事請負者 佐藤工業株式會社
電氣機械納入者 日立製作所
水門扉納入者 石川島造船所
紀功碑背面です。
8名分の御名前が記されていますがレリーフは7名分、
御尊顔が判りませんので、どなたが不在なのかは分かりません。
(2002-09撮影)
発電所建屋
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影)
発電所と笠置ダムです。
超広角レンズのおかげで1枚に収めることが出来ました。
(2002-09撮影)
笠置ダムの様子
画像手前3箇所の三日月状に出っぱっている部分が取水ゲートです。
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影)
笠置ダム下流側の様子です。
関西電力様の車がダムの巨大さを一層強調しているかの様です。
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影)
笠置ダム下流側と周辺の様子です。
フェンス越しにフェンス外から撮影していますが、危険ですので内部には入らない様にお願いします。
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影)
取水口の様子です。
(2002-09撮影)
ダム堤体上流側です。
取水口とクレストゲートの間が少し開いていますが、此処に塵芥流下用のセクターゲートが在ります(現在は使用されていません)
セクターゲートというと海に近い水路などで使用されている立軸のゲートが思い浮かぶと思いますが、元々は扇形の扉体を持つゲートの総称として使われていた様です。
現在ではダム用としては使用されていないと思われていたセクターゲートですが、最近、ライジングセクター(ドルフィン)ゲートとしてその名称のみ復活しています。
(2015-10-19画像追加、2015-01撮影)
ダム堤体上流側と周辺の様子です。
笠置ダムから下流は国道418号線が在りますが、荒れた林道並みの悪路で現在は通行止めとなっています。
バイパスが造られていますので、こちらが完成の暁には国道指定は解除されると思われます。
(2002-09撮影)
上流の様子
山深いですが右岸(画像左側)には舗装道路(国道418号線)が通っています。