所在地:長野県木曽郡大桑村長野
交通:JR中央本線 須原駅より約6km
本データは一般社団法人 電力土木技術協会様の許可を頂いて水力発電所データベースより転載しております。(一部は現地案内板、銘板及び事業者様パンフレット等の資料より)
本データは一般財団法人 日本ダム協会様の許可を頂いてダム便覧より転載しております。
現地紀工碑より
(?部分は判読不能、片仮名表記を平仮名に直しています。また、改行はそのままのため折り返して表示されると思います。)
相ノ澤發電所 紀功碑
動力は一般の工業の要礎にして之が利用の適否は國家産業の盛衰に關す 殊に水力發電は悠久無限の動力資源なるを以て其の開發宜しき
を得んか動力の供給豊富低廉なるを致し國力の伸展に資す所幾何なるを知らず刻下の緊要眞に之に如くものあらざるなり
柳々伊那川は其の源を駒ケ嶽及び南駒ヶ嶽に發して欝蒼たる御料林を貫流し湛へて碧潭となり流れて木曽川に入る 河床勾配急にして
奇岩怪石重疊し水流あるいは跳躍して瀑布の観を呈し或いは奔馳して急湍の勢を見す 而して駒ヶ嶽連峯の積雪は四時絶ゆることなく居然と
して天成の貯水たり實に是れ發電水力として利用すべき絶好の河川と謂ふべきなり 我が社此に観る所あり便子下流より漸次橋場田光
の兩發電所を起し今又相ノ澤發電所の工を?めて茲に其の功を竣ふるに至れり 相ノ澤發電所は橋場發電所を遡ること九キロメート
ルの處に在りて今朝澤と伊那川との合流點に取水し堅岩を鑿ち隧道を通じ水路の延長貮千五百貮拾壹メートルにして貮百四拾五メート
ルの有数落差を見六千壹百キロワットの發電力得たるものなり 堰堤は岩盤上に築きたる高九.二メートル長三七.一メートルの重
カ式のものにして排砂閘一門を有し水路は高幅一.七六メートル水深一.四メートルの隧道にして馬蹄型をなし水圧管は亘長六三三.
六メートル最大設計水壓力毎平方センチメートルに付き三一.五キログラム使用鋼板の最大厚25ミリメートルなり 又其の水車はペル
トン式に依り發電機は横軸三相交流一臺にして電壓は一二000ボルト五0及六0サイクル両用を採用し東西何れの工業都市に対して
も随時自由に送電することを得べし 本工は昭和拾壹年拾月の起工に係り夫を役するもの拾九萬八千百余人セメントを用ふるもの
七萬八千五百袋工費は即ち百八拾萬圓を算し昭和拾参年参月を以て竣工せり 此の間支那事變の勃発するあり材料及び労銀は漸騰して
止る所を知らず當初の勞銀壹圓五拾錢なりしもの後遂に貮圓七拾錢となるに至りも非常なる人夫の募集難に陥り加ふるに地嶮にし
て穿らば益堅く塹れば従ひて壌れ工事用材料の運搬亦至難を極むるの?に遭へり 然り雖も能く此等の困難を克服し水路式發電所と
して最も経濟的に建設費毎壹キロワット僅に貮百八拾圓弱の低費を以て建設するを得たるは一方天興の恩恵に俟つ所あるも亦會社幹部
の熱誠なる督励と従業員一同竝に請負人の獻身的努力に負ふもの多大なりとせざるべからず 而して此の間若干名の負傷者と四名の犠
牲者とを出しことは寔に痛恨の至りにして眞の哀悼に堪へざるなり 工事此の如くにして成り始めて發電の業を起すや恰も国家重
大の時局に際し助力の需要は大早の雲児を望むも啻ならざる秋なりしを以て其の電力供給は戦時下の生産力拡充に寄與し由りて以て幸
に國策に貢献し得たる所あるを信ず 嗚呼駒ヶ嶽の山姿巍々として變るなく伊那川の水流浤々として盡くるなし斯界の隆昌亦天地と
共に窮りなからん 乃ち碑を建て記を存じ之を永遠に記念すと爾云ふ
木曽發電株式會社取締役社長 増田次郎撰 才大蔘溪書
現代文に書き直してみました。括弧内は注釈。一部変ですが御容赦を。添削大歓迎です。
相之沢発電所 工事記念碑
電力は広く工業の重要な基礎でありこれを適切に利用することは国家産業の盛衰に関わる。
特に水力発電は悠久無限の電力資源であるからしてその開発はたいへんに良いことである。
豊富で安価である電力の供給が国力の進展に少しの助けではあろうが今現在緊急に必要であることはいうまでもない。
伊奈川は駒ケ岳及び南駒ケ岳に水源を発し鬱蒼(うっそう)とした御料林(皇室所有の森林)を通り抜け水を湛えて碧い淵となり
木曽川へ流入している。河床は急勾配で変わった形の石が重なり合い水流は跳ねて滝のようであり又駆け走り早瀬の様子を見せる。
こうして駒ケ岳連峰の積雪は四季を通じて絶えることなくひとりでに自然の貯水池になっていて
これは水力発電として利用すべき絶好の河川といえるだろう。
わが社はここを見い出し便子(地名?)下流よりだんだんと橋場、田光の両発電所を起こし、
今再び相之沢発電所の工事を初めてついにその工事の完成に至った。
相之沢発電所は橋場発電所を遡(さかのぼ)ること9キロメートルの所にあり、今朝(ケサ)沢と伊奈川との合流点より取水し、
硬い岩をくりぬきトンネルを通し水路の延長は2521メートルであり245メートルの有効落差で6100キロワットの電力を発生する。
堰堤は岩盤上に高さ9.2メートル、長さ37.1メートルの重力式の物を築き排砂門1門が設けられ、
導水路は高さ及び幅1.76メートル、水深1.4メートルの馬蹄形のトンネルで水圧鉄管は長さ633.6メートル、
最大設計水頭31.5キログラム毎平方センチメートル、管路の鋼板厚は最大25ミリメートルである。
また、水車はペルトン式が用いられ発電機は横軸三相一体型で電圧12000ボルト、50ヘルツ及び60ヘルツ両用を採用し
東西どちらの工業都市に対してもいつでも自由に送電できるようにした。
本工事は昭和11年10月の着工で延べ19万8100人余り、使用したセメント7万8500袋、工費は180万円の計画で
昭和13年3月に完成した。
この間、満州事変が起こり材料代、人件費は徐々に上昇し止まらず当初の人件費1円50銭であり後には2円70銭となったが
それでも非常に作業人員が集まらず、さらには険しい地形のため穴をあけるのもさらに硬く、掘ればこれに伴って崩れ
工事用材料の運搬も又非常に困難を極めることになった。
しかしながらこれらの困難を克服し水路式発電所として最も経済的に建設費1キロワットあたり僅かに280円の低コストで
建設できたことは天興の恩恵(天の恵み)であることは言うまでも無いが会社幹部の真心のこもった監督及び励ましと
従業員一同並びに工事請負人の献身的努力に負うところが多大であるのは言うまでもない。
こうしてこの間若干の負傷者と4名の犠牲者とを出したことはまことに痛恨の極みでその哀悼に尽きない。
工事はこのようにして行われ始め、発電の業を起こすことはいかにも国家の重大な局面に際しこれを助ける力の需要は
大早の雲児(英雄になることを非常に急ぐこと?)を望むが、並外れた優れた秋なりし(秋の実り)をもって
その電力供給は戦時下の生産力向上に寄与しこれによって国策に貢献しているであろうと信じる。
ああ、駒ケ岳の山姿は雄大で変わることなく伊奈川の水流は豊かにみなぎり尽きることが無く
電力業界の隆盛は天地と共に終わることが無いであろう。
そのとき碑を建て記録を残し永遠に記念しなさいと汝は述べた
木曽発電株式会社株式会社取締役社長 増田次郎選 才大蔘溪書
発電所建屋
相之沢発電所紀工碑は建屋右手にあります。
木曽発電株式会社の社長で在られた増田次郎氏は日本発送電の総裁も務められた方です。
発電所建屋と水圧鉄管
水圧鉄管は水量が少ないので細いです。
取水先の伊奈川ダム
堤体に比してゲート支持部の大きさが目立ちます。
ダム湖の様子
画像右よりの奥から流れ込んでいるのが伊奈川で画像右外より流れ込んでいるのがケサ沢です。
上流から伊奈川ダムを望む
結構山深いところです。