出雲電気株式会社 晩越発電所 跡

所在地:島根県鹿足郡津和野町左鐙
交通:JR山口線 日原駅より約6km

発電所諸元

歴史(途中は抜けている可能性が有ります。?は未確認)
所有:石見水力電氣株式会社[運開]−出雲電氣株式会社?[廃止]
大正4(1915)年1月1日:運用開始
発電の区分
種別:廃止(一般水力)
発電形式(落差を得る方法):水路式
発電方式(水の利用方法):流込み式
出力
最大出力:250kW程度?
水量
使用水量:2.78立方メートル毎秒
落差
総落差:12.12m
設備
導水路:総延長96.97m
河川
取水:高津川(吉賀川)
放水:高津川(吉賀川)

案内板、記念碑等

現地紀功碑より
(異体字や略字等、一部の文字は置き換えてあります。また、改行はそのままです。)

堀翁水力電氣功績碑

錦鶏間祗候従三位勲二等煢ェ直吉書

国家隆昌ノ根本ハ地方富源ノ開拓ニ在リ吾石州堀藤十郎君ノ如キハ実ニ地方富源ノ開拓者ト謂フヘシ堀家ハ古
來山陰ノ長者ニシテ君ハ其ノ第十五世ナリ嘉永六年ニ生レ舊名ヲA造ト稱シ後藤十郎ヲ襲名ス詩ヲ能クシ樂山
ノ號アリ資性寛厚明敏ニシテ義ヲ重ンシ衆ヲ愛シ経濟ノ才ニ富メリ産業教育衛生交通賑恤等苟モ地方公益ノ事
業ニ開シテハ率先盡力至ラサル所ナシ朝廷其ノ功ヲ賞シ藍綬褒章紺綬褒章及勲六等瑞寶賞ヲ賜フ君夙ニ吉賀川
ノ水流ヲ利用シ水力電氣事業ヲ興スノ志アリ大正三年五月鹿足郡内有志者ト相諮リ石見水力電氣株式會社ヲ創
立シ自ラ社長ト為リ此ノ地ヲ選定シテ水力取入口ト爲シ竝ニ發電所ヲ設置セリ此ノ地ハ絶好ノ地勢ヲBメ河水
ヲ引クニ堰堤ヲ要セス水路隧道僅三百二十尺ニシテ水頭落差四十尺ヲ得最小水量百個ヲ有ス君自ラ洞名ヲ撰ヒ
水哉門ト稱シ自書シテ之ヲ門口ニ掲ク水車ハ東京電業社技師田澤博士ノ斬新ナル設計ニ依リ同社ノ製作ニ係リ
發電機ハ東京芝浦製作所ノ優秀機ヲ撰ヒ水車調速機ハ英國ゼンスオルナンベービング商會製作品ヲ採用シ總テ
機械及設備ノ最モ精巧完全ニヨリ運轉ノ絶對安固ヲ期ス然シテ工事ハ速力ニ竣成シ大正四年一月一日送電ヲ開
初セリ再來社運順調ニ發展シ配當率モ他社ヲ凌クノ觀ヲ呈シ地方産業モ大ニ勃興セリ是レ全ク君カ奮發激励ノ
結果ナリ然ルニ惜ムベシ君遽ニ重病ニ罹リ大正十三年十月六日特旨ヲ以テ從六位ニ叙セラレ同日溘亡ス享年七
十二嗣子誠道氏襲名シ次テ社長ノ任ニ就キ先考ノ遺圖ヲ繼承シ翌年資本金ヲ五拾萬圓ニ増額シ供給區域十七箇
町村ニ亘リ電燈數臺萬五千個動力亦六百馬力ヲ算スルニ至ル昭和二年本社ヲ出雲電氣株式會社ニ合併スルニ當
リ最終ノ株主總會ニ於テ此ノ地ニ君ノ功績碑ヲ建立シ水哉門ト與ニ長ヘニ後昆ニ記念センコトヲ決議セリ而シ
テ之レカ建設ニ際シ舊社重役諸氏文ヲ余ニ需ム余君ノ郷弟トシ少壮ヨリ友交殊ニ深シ仍チ快諾シテ之レヲ記ス
       昭和七年十月
                       錦鶏間祗候從三位勲二等   煢ェ直吉撰
補足:
A:禮のしめすへんがネ、礼の旧字且つ異体字
B:毎の下が口、該当の文字が見つかりませんでした。

(現代文に書き直してみました。一部変ですが御容赦を。添削大歓迎です)

堀翁水力電気功績碑

錦鶏間祗候 従三位勲二等 煢ェ直吉書


国家隆昌の根本は地方富源の開拓にある。
吾が石州(石見の国)の堀藤十郎氏はまさに地方富源の開拓者と言っていいだろう。
堀家は昔から山陰の長者にして堀藤十郎氏はその第15代である。
嘉永6(1853)年に生まれ旧名を礼造と称し後に藤十郎を襲名する。
また、詩を良く詠み楽山の雅号を持っている。

資質性格は温厚かつ明敏であり義を重んじ大衆を大切にし経済の才能豊かであり
産業、教育、衛生、交通 賑恤(困窮者などに施す事)など、
いやしくも地方公益の事業を始めるに当たっては率先して尽力しない事は無い。
朝廷(大正天皇)がその功績を賞し藍綬褒章、紺綬褒章、及び勲六等瑞宝章(瑞宝単光章)を賜った。

堀氏は早くから吉賀川の水流を利用して水力発電事業を起こす事を志していた。
大正3(1914)年5月鹿足郡内の有志者と企画し石見水力電気株式会社を創立し、
自ら社長となりこの地を選定して取水口とし更に発電所を設置した。

この場所は絶好の地勢であり川の水を導水するのに堰堤を必要とせず
水路トンネルはわずかに320尺(96.97m)で水頭40尺(12.12m)を得られた。
水量は最小100個(2.78立方メートル毎秒)を取水できる。
堀氏自ら導水路トンネルの名前を付け水哉門と称し自書してこれを取水門口に掲げた。

水車は東京電業社(当時の電業社水車部、水車部門は後に株式会社東芝へ継承)
の技師である田澤博士の斬新な設計により同社にて制作され、
発電機は東京芝浦製作所(現、株式会社東芝)の優秀な機械を選び、
水車調速機は英国ボビング商会[Jens Orten Boving and Co.,]製作品を採用し
全ての機械及び設備を最も精巧完全な物を選定することにより運転の絶対安定を期す。
そうして工事は速やかに竣功し大正4(1915)年1月1日送電を開始した。

今までの事業と同じように社運は順調に発展し(出資者に対する)配当率も他社を凌ぐ様に見える状況である。
地方産業も大いに勃興しておりこれは堀氏が奮発激励した結果である。
それなのに惜しむべきことに堀氏は急に重病に罹り大正13(1924)年10月6日、
特旨(大正天皇の思し召し)により従六位に叙せられた日に急逝された。享年72。
(堀家の)跡継ぎである誠道氏が襲名して次の社長に就き先代(堀藤十郎氏)の意図を継承し、
翌年、資本金を50万円に増額し供給区域を17町村に亘り電灯数15000個、動力も同様に600馬力を計上するに至る。

昭和2(1927)年、本社を出雲電気株式会社に合併するにあたり最終の株主総会に於いて
この場所に堀氏の功績碑を建立し水哉門と共に永久に後世の人の為に記し残しておく事を決議した。
そうして功績碑建設に際し旧社(石見水力電気株式会社)の重役諸氏から私(煢ェ直吉氏)に碑文を求められた。
私(煢ェ直吉氏)は堀氏の地元の弟分として若い頃より特に交友深かったので直ちに快諾してこの文を記す。

昭和7(1932)年10月

錦鶏間祗候 従三位勲二等   煢ェ直吉撰

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2018-08-27初掲載(2017-05撮影)
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