所在地:福島県会津若松市河東町八田粟畑
交通:JR磐越西線 磐梯町駅より約2km
初の110kV送電が行われました。
本データは一般社団法人 電力土木技術協会様の許可を頂いて水力発電所データベースより転載しております。(一部は現地案内板、銘板及び事業者様パンフレット等の資料より)
現地紀功碑より
※部分は判読不能、略字および異体字の一部は置き換えてあります。
碑文の1行が長い為、実物での1行を途中で折り返し2行で記載しています。
猪苗代湖面低下工事記念碑 猪苗代湖は那須火山帯の渚山の間にありて風光明媚なり有栖川宮威仁親王 湖畔に別墅を営※※※※ひ湖の澄静なるを賞し天鏡と名づけ給へやといふ 而して湖の水四時深く湛へ利用の道開くべく原生の術講ずべしその標高五 十四米面積一0八平方粁集水面積八二0平方粁磐梯吾妻に發する渚水を 集め流れて日橋川となり會津盆地を過ぎ阿賀野となりて日本海に入るこの 湖を利用せしは寛永の頃引きて灌漑に供せるに始まるこれ今の戸ノ口布藤両堰 なり明治十年内務省安積原野開墾の儀あり十一年御雇工師ファンドールン 之を東に流するを集し湖面を調節し以て年期に備へむとせり是れ湖水利用の 割期にして十五年安積疏水功成り現に開田八千餘町歩を得るに至れるなり 四十四年仙石貢氏等猪苗代水力電氣株式會社を起し湖面最高水位一.八八 米川下0.九一米水深を發電用貯水池たらしめむとし大正三年猪苗代第一 發電所成り湖面調節を実施せりこれ湖水利用の第二次開成にして十一万五千 ボルト東京送電の成功と共に實にわが水力電象界の記録となれり其後更に 檜原小野川秋元三湖の湖水工事成り猪苗代湖貯水容量に大なる補益を 得たり然れども電力需用の激加は水源の猶乏らざるを憂ふ七年更に湖面を 低下し是によりて貯水容量の増大を計畫す九年低下工事の出願となりし が十二年猪苗代水力電氣株式會社は東京電燈株式會社に併合せられ工事の 計畫総て継承せられ其の實現に努力せるも機運至らず空しく歳月 を過ぎぬ安積疏水組合常務委員渡邊信任氏は之を國家の大損失なりとし昭 和十四年諸方に勧説し戸ノ口布藤両堰※工事促進を要望するに至れり 偶東京電燈株式會社社長小林一三氏が電源開發は生産力の大事たるを強調 し大水力發電所の建設に鋭意するに際會せるを以て茲に地方多年の利 実懸案忽ち氷解し昭和十五年一月随時湖面低下工事は時の福島縣知事 橋本清吉氏によりて許可せられ湖面低下の根本問題解決し翌年一月遂に 本計畫の許可を得るに至れり然るに此の時全國電力の逼迫甚大な※※を 以て東京電燈株式會社社長新井章治氏に急速に工事を竣成すべき を命じ二月現場工事に着手し昭和十七年二月一日工事全く※り新水路開通 せり今低下工事による長大水深三.二四米を利用する時は無効の水を電力 化すること猪苗代四發電所に作て一年一億二千万キロワット時の巨量に 達し實に関東地區電力の寶庫全國電力調整の開鍵なり茲に工事の沿革を※し 之を不朽に傳ふ此の事人生の進運に資し國家の興隆に益すること尠からさるべしと云爾 昭和十七年三月 東京電燈株式會社
東京電燈株式會社社長 新井章治 篆額 帝國學士院會文學博士 佐佐木信綱 撰文 前國學院大學講師 岡山蔭 書 石工 佐藤万作
今風の文章に書き直してみました。一部変ですが御容赦を。添削大歓迎です。
碑文で敬称略の部分は同様に敬称略としています。
判読が難しい部分は可能性の高い文字、前後の文意より判断していますので誤っている可能性が有ります。
岡山蔭様のは「はしごだか」ですが文字化けする場合が有ります。
猪苗代湖面低下工事記念碑
猪苗代湖は那須火山帯の山々の間に在って風光明媚である。
有栖川宮威仁親王は湖畔に別荘を設けようとし、湖の澄んで静かな様子を褒め称え天鏡と名付けなさいと仰られた。
このように猪苗代湖はいつも深く水を湛えており、これを利用出来る様に昔から考えられてきた。
その標高514m、面積108平方キロメートル、集水面積820平方キロメートル
磐梯吾妻に発する水々を集め流れて日橋川となり会津盆地を過ぎ阿賀野となって日本海に入る。
この湖を利用することは寛永(江戸時代)の頃に導水して灌漑に供することから始まった。
これが現在の戸ノ口、布藤の両堰である。
明治10(1877)年、内務省にて安積原野開墾の計画がされた。
明治11(1878)年、国に雇われた工師のファンドールン氏、湖水を東に流せるようにするため湖面を調節し通年の利用に備えようとした。
これが湖水利用に於ける歴史上の区分となり明治15(1882)年安積疏水が竣功、実に8000町歩を超える水田を開くことが出来た。
明治44(1911)年、仙石貢氏などが猪苗代水力電気株式会社を設立し、
湖面最高水位1.88m、川下0.91mの水深を発電用貯水池として利用し大正3(1914)年に猪苗代第一発電所が竣功、湖面調節を実施した。
これが湖水利用の第二次開成であり、11万5千ボルトでの東京への送電の成功は実に水力発電業界の記録となった。
その後、更に檜原、小野川、秋元の三湖の湖水工事が竣功して猪苗代湖の貯水容量を大きく補強することが出来た。
しかしながら電力需用の激しい増加は上記三湖の増強分を加味しても水源の不足が懸念され、
大正7(1918)年、更に湖面を低下する事によって貯水容量の増大を計画した。
大正9(1920)年低下工事の出願となったが大正12(1923)年、猪苗代水力電気株式会社は東京電灯株式会社に吸収合併された。
工事の計画は総て継承され、その実現に努力するものの機運至らず空しく歳月が過ぎた。
安積疏水組合常務委員の渡邊信任氏は之を国家の大損失であるとし、昭和14(1939)年多方面に説いて回り戸ノ口、布藤の両堰の工事促進を要望するに至った。
丁度この時、東京電灯株式会社社長小林一三氏が電源開発は生産力の増加に重要である事を強調し、
大規模水力発電所の建設を強く進めている事に出会い、ここに当地方における長年の利実懸案はたちどころに氷解した。
昭和15(1940)年1月、随時湖面を低下させる工事は時の福島県知事橋本清吉氏によって許可され、
湖面低下工事における根本の問題が解決し、昭和16(1941)年1月ついに本計画の許可を得るに至った。
そうしているうちに、日本全国で電力の逼迫が甚大となったので、東京電灯株式会社社長新井章治氏に急速に工事を竣成するように命じ、
昭和16(1941)年2月現場工事に着手し、昭和17(1942)年2月1日工事はすっかり完了して新水路が開通した。
今、低下工事によって得られた長大な水深3.24mを利用することは無効となる水を電力化することである。
つまり猪苗代第一〜第四の発電所にて発電すると年間1億2千万キロワット時の巨量に達し、
実に関東地区への電力供給の宝庫となり、全国において電力調整を行う発端となった。
ここに工事の沿革を遺してこの事業を永遠に伝える。
この事(猪苗代湖面低下工事)は人々の生活を向上させるのに役立ち国家の繁栄に有益であることは多大である事に他ならない。
昭和17(1942)年3月 東京電灯株式会社
東京電灯株式会社社長 新井章治 篆額 帝国学士院会文学博士 佐佐木信綱 撰文 前國學院大學講師 岡山蔭 書 石工 佐藤万作
(2019-03-03画像追加、2018-06撮影)
記念碑と十六橋水門です。
碑文の岡山蔭様の御名前の判読が難しく確認できなかったのですが、正しく確認出来ました。
同校にて書道の講師をされていらっしゃった方だそうです。
お教え頂きました國學院大學様、どうもありがとうございました(2019-03-07追記)
(2012-11撮影)
発電所建屋
運開当時からは建て替えられていますが、レンガ風の外観となっています。
(2012-11撮影)
画像左側の放水口及び放水路が画像右外から流れて来ている日橋川と合流する部分です。
(2012-11撮影)
余水吐下部は本発電所で最も年季が入っていそうな管路となっていました。
(2012-11撮影)
水圧鉄管下部
運開当時は水車6台でしたが現在は4台ですので、両端の2本が使われていないと思われます。
(2012-11撮影)
水圧鉄管下部の曲がり部分付近の様子
(2012-11撮影)
上の画像で写っている水圧鉄管の上部、緩傾斜へと変わる部分を上(水圧鉄管を跨いでいる橋)から撮影しました。
(2012-11撮影)
水圧鉄管中腹から上部を鉄管脇より撮影しました。
水圧鉄管の間に支持台跡が見えますが、励磁機用水圧鉄管が在った跡です。
(2012-11撮影)
水圧鉄管を跨ぐ橋が架かっていたので、励磁機用水圧鉄管が通っていた部分から水圧鉄管上部及び上部水槽を撮影しました。
(2012-11撮影)
すっかり暗くなってしまったので上流からのみですが、日橋川に設けられている取水堰(戸ノ口堰及び布藤堰の頭首工と共用)です。
戸ノ口堰左側に取水口が少し見えます。
画像手前左側は戸ノ口堰用水の取水設備です。
此処以外に猪苗代湖から直接取水(小石ヶ浜水門)も行われています。
(2019-03-03画像追加、2018-06撮影)
十六橋水門です。
上の画像の取水堰よりも猪苗代湖に近い部分に設けられ、湖水の水位を調節しています。
(2019-03-03画像追加、2018-06撮影)
量水標と十六橋水門です。
量水標は左側がメートル、右側が尺で表示されています。
現地案内板に拠ると、元々は橋が架かっている辺りに角落しを用いた石造りの16のアーチを連ねた水門(道路兼用)が設けられていましたが
発電所建設に伴い現在の位置に水門のみ移動、翌年電動化して現在に至るそうです。
十六橋の名は弘法大師が当地の人々のために日橋川に16の塚を築き橋を渡したのが由来とされているそうです。